永遠も半ばを過ぎて、みたいな漠然とした考えごと

個人的なことを少し。タイトルは中島らもの本のタイトルだけど本文とは関係ない。まあ、なくはないけどタイトルだけの話。35歳は人生の折り返し地点だと誕生日に書いたのが半年前で、それなりに考えながら半分が過ぎてきた。何かが変わったようでいて、何かを変えたわけではないなと思ったりして。そんなつまらない個人的なこと。

ここ一ヶ月、仕事を含めて大きな出来事が幾つかあって、年が明けてから二つ目の山を何とか乗り越えた今日。ややこしめのサイトがオープンしたけれどどうもスッキリしない状況なのでイマイチスッキリしない。でもまあ、道半ばとは言えここ二ヶ月自分の仕事や生活の大半を占めていた案件がひと段落。キツかったなあ。

自分という人間のことは、自分が見てるよりも他人の目を通してこそ良くわかるなというのが今の実感で、相手にどんな風に伝わっているか、伝えるべきか、その表に出たことだけが人生の真実だなあなんてぼんやり考える。そうすると、自分が考える自分の像と他人が見ている自分の像の間に乖離は出てくるんだけど、自分が発した言葉や態度によって他人の自分像が出来ているとすると、言わなかったこと、飲み込んだこと、やらなかったことによって自分自身の変化とか考え方とか、その変化とかを感じ取ることは出来るなあと思ったりして。自己と他者の間を埋めるもの。ふむふむ。

それは年をとったとか大人になったとかいろんな言い方があるんだろうけど、成長と退化と両方感じてて、何というか、常に動いたり新しいものに飛びついたり、遊んだり話したりして刺激を受けることが大事なんだなーと改めて思うのです。何のことかさっぱりやね。


子供が出来てから、極端に人と会ったり遊んだりすることが少なくなって、限られた内輪の人とだけコミュニケーションとってても仕方ないよなあと思ったりするものね。その意味ではTwitterみたいなSNSで、話題だけで分けられる同一クラスタの人と接したりすることはとても刺激的で、これがなかったらもっと老けてたんかなあと思ったりもするのです。自分にとって面白いと思う事に常につっこんで行けるような人でありたいと思うし、仕事やピクニックや、参加しているイベントなんかを通じても面白いの入り口に手はかかっている。それを面白くするかどうかはやっぱり自分次第なところがあって、しんどいとかめんどくさいとか言わずに面白そうな事にはまだまだ貪欲でいたいなーと思うのです。

忙しいは面白い。キツいなあ、も面白い。そう思うにはやっぱり自分で選ばなきゃいけなくて、与えられたものや惰性で考えているものにはやっぱり面白いは待っていない。心構えだけではなくて姿勢の問題で、なんというか、一番前に立って旗を掲げているのがやっぱり自分は好きなんだろうな。新しい事、忙しい事、自分が必要としてる事。だから何というか、まだまだ頑張らなきゃなーと漠然と思います。


自分の面白いには幾つかの犠牲が必要で、ただしそれを家族に背負わせるのはやっぱり面白くないので自分で背負って、これからもやって行きたいなーと思うのです。全力で遊んで、全力で仕事して、全力で笑ってられるのが理想だなあ。お金も必要だし、安定も必要となると、自ずとやるべき事は見えてくるなーなんて。

とりあえずここ一ヶ月ずっともやもやしてるのだけどようやく自分の中で光明も見えてきたので少しスッキリしてきたところ。いろんな人の言葉が反芻されたり咀嚼されたりしながらしみていっててそれもまた面白いのです。結局は悩んでいるのが一番つまらなくて、さっさと決めてさっさと動く、だな。やりたい事、行きたいとこ、欲しいものや食べたいもの。うむ、だいたいOK。とりあえず今はいろんな人に会っていろんな話がしたい。自分には何もないので、面白い人に会いたいのだ。


新しい自分が見たいのだ、仕事する。という河井寛次郎の言葉が最近お気に入りです。うむ。