オリンピックとナショナリズム

まあ、この手の記事はどこかが書くと思っていたらやっぱり出てきましたね。

実際にはナショナリズムに基づいた国威発揚の手段としてメダル競争がオリンピックを支配してしまい、選手の人間性は歪まされ壊されている。

まあ、いろんな考え方の人がいるからいいですよ。それ自身はね。
日の丸や君が代が槍玉に挙がるのは別に良いと思うのです。人や世代や環境によって捉え方がいろいろあるのもよくわかりますしね。でもなんだかそのことに誇りを持っている選手も沢山いるわけだし、いや、そもそもオリンピックの場に置いてナショナリズムを否定したら「国対抗」という前提見たいのが崩れるんじゃないのだろうか。
それともやっぱりオリンピックは参加することに意義があって、勝負や、まけたくないという気持ちは重要じゃないんだろうか。だとしたら選手はあんなに勝敗に一喜一憂し、敗北ではなく勝利によってコートに崩れ落ちたりするんだろうか。


僕はナショナリズムを賞賛したいわけではないのです。確かに「偏狭な」ナショナリズムはえてして偏った結果しかもたらさないし、それはどちらかというと近年では日本よりも他の特定アジアの国々の方が国民感情的にも政治的にもいえることじゃないかと思ったりもします。
しかしそれは悪いことなんでしょうか。スポーツにおいて隣国とか特定の地域にまけたくないと思うのは、地域性とか郷土愛とかそういうのでみてもやっぱり普通のことなんじゃないのかなあ。例えば阪神巨人戦阪神横浜よりも盛り上がるのは脈々とある伝統かもしれないけれど、サッカーでダービーといわれる諸々の地元同士の戦いとか、やっぱりそういうのが一番盛り上がるのは自然なことだと思うしなあ。サッカーでもバレーでも野球でも、タイとやるより韓国とやる方が盛り上がるしねえ。マスコミも「伝統の日韓戦」とかあおってるわけだし。


少なくとも、武力ではなくスポーツで争ってるわけだし、それをナショナリズムを持ち出してとやかくいうのは違うんじゃないだろうかと。てか、国別対抗のスポーツ大会からナショナリズムを抜き出して何をしろというんだろうかね。まあ、いろいろあるんでしょうが。

また、画家ケーテ・コルヴィッツの言葉を引用してこう述べている。

あらゆるナショナルなものの背後に、インターナショナルなものが厳存する

いや、そうじゃないでしょ。インターナショナルてのは、ナショナルなものが前提にあって、それをお互いに認め合うからインターナショナルになるんでしょ。ナショナルでない人間がインターナショナルになれるわけがない、と海外留学や海外放浪や外国語大学に行った僕は思うのです。


だからあれですよ、戦争だとか紛争だとか、そういうのじゃなくてスポーツの応援してるときくらい、日本という国を心から愛したり応援したりしても別に良いじゃないかと思います。少なくとも政治や行政の面で愛せるような国になってくれないんだからさw
ややこしいこと抜きに、「日本がんばれ!」で良いじゃないかと思うんだけどねえ、、、