一個人としての僕、父親としての僕

以前何かの子育て本で読んだのだけど、「父親は子供が5歳になるまで一切個人的な楽しみや趣味のことは忘れなければならない」というようなことが書いてあった。「まっとうな日本人を育てる」という本だった気がします。


つまりは子供を育てるには父親の存在は不可欠で(シングルマザーへの政治的配慮はまた別の問題ですが)、とりわけ乳幼児期のそれはどんな知育よりも重要だというような内容。
言わんとする事はよく分かるし、確かにそうだろうなと思っても十全にその通りできるかと言われるとなかなか難しいものだなと思います。個人としての僕は、しばらくどこかにおいておけということなんだな。そんなこというと奥様は「私なんてとっくに置いてきたわよ」といいそうだけどな。そのくらい彼女は献身的だし、彼女を見てると良くも悪くも世の母親たちが必要以上に子供に肩入れしたり過干渉だたったりするのも、何となくわかるような気がする。うちの奥様は(今のところ)そんな感じではないけれど。


だけど実際のところ父親として、夫として、自分に求められるいくつかのことは代替えなんて当然効かないわけだし、子を育む覚悟って言うのはそういうことなんだと最近になってひしひし感じています。

前から書いてるけど男は妊娠も出産も経ずに親になり、体験や身体的感覚もなく突然父親になるわけです。母性は本能的な感覚かもしれないけど、父性なんてのはそもそも存在するのかすら怪しいけども、あるとしたらそれはやっぱり概念的なものなんだろうなと思います。


「父親としてしっかりしないとな」


なんて考えるんだよ、いろんな局面で。
妊娠中からかなり前のめりで子育てに関わろうとしても、やっぱり今でも戸惑うことはたくさんあります。

いや、そんな話がしたかったんじゃないな、そうだ、通勤の話だ(そんな話ひとつも無かったけど)


家庭で、職場で、自分に課せられた役割みたいのがあって、いや、役割じゃなくてタスクっていうのかな、母としてこうあって欲しいと願うその対価として、父親としてこなすべきタスクは明確にあるわけで。

「こなすべきタスク」なんていうと楽しくなさそうだけど、何ていうのかな、自分の描く父親像を築いていく努力とでも言おうか、それは何となく車の免許を取るのに似てるきがするな。免許を取るために勉強するのではなくて、女の子とドライブに行きたいから教習所に通う、というような。


そんな状況の中で、通勤時間の1日3時間は基本的に誰にも干渉されず好きにしていいんだと思うと何だかずいぶん楽になれた気がするのです。
なんと言うか、通勤時間がずいぶん長くなるからそれを有効に使わないともったいないような無駄をしてるような気になっていたけど、そうじゃないんだ、と。


割り切りというかメリハリというか、今の僕にとっては中間の宙ぶらりんの場所なんじゃないかな、通勤時間って。
駅まで歩いたり電車を乗り継いだり、そんな時間でできることは限られてるし、できる事なんて大したことじゃないわけで。本を読むでも日記を書くでも好きにして、それが終わったらちゃんと家に帰ればいいんだな、と思うのです。


父親であるということは本当に素晴らしい事で、こうして地球上で命をつないでいく循環の中に加われたということは他の何にも代え難い体験です。
しかしそれは同時に独身の時や奥様と2人の時の気ままな生活との部分的な決別で、その2つは似てる様で全然違う。お好み焼きと広島焼き、あるいは讃岐うどん稲庭うどんみたいに。きっとそういう事だと思う、父親歴10ヶ月弱の僕。


あとはあれだ、そんな通勤時間もなく親しい友人もいない旦那の実家で孤軍奮闘する奥様に、感謝の気持ちをちゃんと伝えないといけないなとひしと感じます。言葉やヒロタのシューアイスとかじゃなく、シンプルな行動で。うむ。


今日はカットマンブーチェききながら帰ってます。
2年前のフジロック、ほんまにええライブやったなあ。
来年こそは、って、あれ?