京都、河井寛次郎記念館へ

機能は奥様のたっての要望で京都へ。清水にある河井寛次郎記念館へ行ってきました。昔から知ってたのに一度も行った事なくて、友達の話のは死によく上がってくるのに全く知らなかったので、僕もずっと行ってみたかったわけです。

で、車に乗って京都へ。
とりあえず昼食をとboogaloo cafeで友達と合流してランチ。こういうオサレなところは久しぶりだ。子連れで行くのは気が引けるのだけど、でもま、たまにはそんなんもありよね。

阪急から歩いて、えべっさんやってたのでそれを通り抜けてまずは清水を目指す。こういう祭り事ってなにげに楽しいよねえ。無駄に買い食いしてね。ははは。
えべっさん

そして、記念館に到着。雪がさらさら舞い降りる午後の事です。
河井寛次郎

寛次郎自体は方々の美術館で目にすることがあるし、最近は民芸に興味が出てきたので奥様と一緒に見て回ったりする事も多くて、ぜひとも本陣に乗り込まねばと意気込んでいったのですが、良い意味で拍子抜けの館内。
作陶の作品がたくさん展示されてるのかと思っていたら、作業場兼住居になっていたその住まいが公開されていると行ったおもむきで、いろりの奥を抜けるとかまどがあったりろくろがあったりして、当時の様子が思い起こされるような雰囲気。器ももちろん飾ってあるのだけど、それよりもその空気感と言うか、古い京町家の中を探検する感じでとても楽しい。
窯を覗く

当時の写真なんかも飾ってあるのだけど、置いてある家具なんかもほぼその時のままで全体的にその息吹が感じられてテンションが上がる。明朝の家具やウィンザーチェア、アフリカの椅子なんかが渾然一体としててまさしく「民芸」という概念その物が繰り広げられているのです。そしてそれが違和感なく馴染んでいるのが、なんだかすごいなあと思うのです。居間、客間、書斎と広がる居住空間にしてもすごく落ち着いていて心地が良い。

しかし、ああいう古い和風の建築物に入ったときに感じるなつかしい感じってどこからくるんだろうか。実際自分の幼少の頃は既に洋風の室内だったような気がするし、DNAに刻まれているなんて嘘に決まってる。ということは「なつかしさ」というよりは身体のサイズにモジュールが合っているからとかそういうことで、畳や和室、数寄屋建築というものが日本人の身体に馴染むからなのかなあと帰りに奥様と話していました。

あとは、生活様式なんかに矛盾がないからなのかなあ、と思ったりね。洋風とか、和風とか、そういうのが渾然一体と良いとこ取りみたいになってないから。ん〜、住まいって難しいなあ。


で、僕が記念館の中で1番心に刺さったのは器でも住居でもなく、書。
寛次郎は様々な言葉を残してて、それが仕事や生活に関する物なんかが多くて、例えば友人に昔に聞いたことがあってすごく感銘を受けたのが

「物買って来る、自分買って来る」

というやつ。
つき合っている人を見ればその人が分かる、というのじゃないけど、自分の持物って確かに自分自身でもあるんだものなあ、なんて事を確か学生の頃にショックを受けたような記憶があるのです。

で、帰り間際にみたのが

「新しい自分が見たいのだ ーー仕事する」

というもの。
これはちょっと、時間が止まりました。
なんか、何も考えられなくなりました。そんな事を思っていたら、奥様が昔映像編集の仕事をしてたときに河井寛次郎を取り上げた番組があって、それで仕事中にこの言葉を見て仕事中に衝撃を受けた、というような事を一緒に行った友人に熱く語っていました。ああ、同じところで引っかかるんだなあ、夫婦ってw

河井寛次郎は、その作品や釉薬の色使いとかすごいなあと思うのだけど、なんというか作品というのはあくまで結果であって、その人となりというか人間自身にすごく興味がわいたのでした。
ん〜、ちょっと本読んだりしようと思う。また時間とって記念館にも行ってみたいな。

と、まあそんな具合です。